Croire que

Efforts to make easy

思考停止

 こんばんは。久しく更新していなかったわけだ。ということで、今回は最近というか今まで感じていたことを偏見多めに(ブログとはそういうものだが)自由気ままに言語化していく。

 日本人特有なのかは知らないが、“常識的” “一般的“などの言葉に取りつかれすぎてる人が多いように思う。さらに、現代で私たちが触れている情報量が多いため、何が正しくて悪いかの判別はより難しくなっている。そもそも、ある物事が正しいのか悪いのかで意見が分かれる事柄はどの宗教を信仰するかといった類のときもあり、正解がないことがある。問題の核心はそこではなく、「なぜそう思うのか」「なぜそう考えるのか」である。本来、何かが正しい、あるいは悪いと判断するのであれば自分なりの理由を持って主張しなければならない。もちろん、この理由が感情論であってはならない。感情で訴えて世の中変わるほど甘くない。

 きちんとした理由を持って主張しているのであれば、それ以上は個人の自由であるが、先ほども述べたような「常識だから~」「一般的に~」「〇〇さんが言っていたから~」は非常にまずい。これは自分ではなく他の誰かが言っていたからという段階で勝手に思考をやめただけでなく、自分がその言葉を使っているにも関わらず、その責任を他人に押し付けてしまっている。たとえその言葉を発言した人がいくら偉大であってもそれは信憑性が高いだけでその言葉が“本当に”真実であるという裏付けにはならない。このような人達と正しい悪いの議論をしてもその意見は自分のものではなく他人のものであるからそれ以上の話が出来ない。これが”常識的”や”一般的”といった言葉に囚われている人と議論が進まない所以である。

 

 ところでLIAR GAMEという漫画をご存知だろうか?作中にこんなセリフがある。

「多くの人は誤解しているけれど 人を疑うとはつまり その人間を知ろうとする行為なんだ」   (LIAR GAME Ⅳ)

疑うことは悪だと思われがちだが、無条件で相手の言うことを全く疑わずにひたすら“信頼”することはもはや”洗脳”ではないだろうか。相手の言葉に同意するのであれば、自らがその言葉を咀嚼して、自分の責任を伴った上でその言葉を自分の意見として用いるべきである。どちらか片方だけではなくお互いがその言葉に共感し、その言葉を共有するからこそ信頼となるのだろう。そして、共有の規模が大きくなったものがそのコミュニティの常識や一般であると思う。何となく思っていたことも実際に考えてみるとよく分からないことがこの世界には多いのだ。